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1990年代の昔話し(その12)…サーカス好き


活きの好いミュージカル映画「グレイスト・ショーマン」を観ていたら、
自分がサーカス好きだった事を思い出してしまった.

そこで、90年代の昔話しを久しぶりに.

思えば、幼い頃からサーカス好きだったかも.
小学生の頃、木下サーカスを観たのが初めてだった.

テントの中は異空間.
なにかドキドキする気持ちが抑えられないような
不思議な気持ちにさせられた.

前述の映画のラストシーン、専用劇場が焼き討ちされ窮地に立たされた
ヒュー・ジャックマンが思いついたのが、テントでの興業.
以来、サーカスのテント興業が始まったのかも?

在仏時、テントを見かけると飛び込んでサーカスを楽しんでいた.
ヨーロッパのサーカスは各国各地を巡業しているんだよね.

むろん旅先でも…、果敢に観ていた.

この写真は、スイス・ローザンヌにて見つけたテントの前で艦長と娘.



この時見たのは、ヨーロッパの名門:NOCKサーカス.










映画で観たのと、同じような光景が見られる.
あんな素敵なミュージックはなかったけどね….




サーカスの綺麗なお姉さんとの記念撮影.
東洋人のお客も珍しかっただろうなぁ….


これは、1992年オランダのデンハーグで観た、RENZサーカスのチケット.
これまた名門だね.




帰国後も、シルク・ド・ソレイユの初期作品を数回観にいった覚えがある.
最近は娘も大きくなったから(笑)、観てないなぁ.

今度は孫でも連れて…サーカス見物も良いかも.







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2000年代の昔話し(その2)


また昔話しの再開です.
とは言いながら、今回で最終回です.
2005年からは本ブログが始まってますので、内容が重複するからです.

最後の回、宜しくお付き合い下さい.

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・交換日記

副長の実父母はチバラキ近所の柏に住んでいた.時折は行き来していたが、
70代後半にもなり、母が入院してしまった.若い時、と言っても東京に上京してきた辺りで
内臓手術をした際、輸血製剤を用いてB型肝炎を発症し、持病としていたのだ.

体の弱い母親だったが、健気に70代後半まで生きてこれたのは幸運だったのかもしれない
入院先はJ医大病院、これ以上は望めない高度治療センターを持つ大きな病院だった.




最初は一般病室で、週に一度位見舞いに行っていた.が、一向に快方へは向かわずに
糖尿病の合併症も併発して重篤になってしまった.

ナースステーションのすぐ脇の特別室に移され、治療にあたるという状況までに.
入院時は軽い認知症のレベルだったが、肝機能の低下と供に急激に認知症も進行した.

一ヶ月も経つと毎晩会社の帰りに病院へ寄るようになってしまった.パジャマや下着の洗濯
以外には、ただ母の様子を見守るだけの時間を過ごしていた.

お昼には父が毎日見舞いに来ていた.元来仲の良い夫婦だった.
夜に副長がやってくる.その時にはもう父は自宅へ帰っている.
そこでお互いの交信手段として「交換日記」が自然発生した.

昼間の様子を父がこまめに記載する.お昼御飯の食べた量だの、母と交わした会話などなど….
夜の部分は副長が夕飯の量だの看護師さんからの状況説明を聞いて日記に記録する.

父もその病院へ行くには、バス、電車、タクシーを使って往復していたからかなりの
負荷だっただろうに、毎日律儀に通っていた.ごくごくたまに夜まで父が居残っていると、
合流して一緒に病院近所の中華屋で夕飯を取ったりもした.

この交換日記は二人の間の交信記録なのだけど、
母への想いの綴りでもあり、父への気遣いでもあったのかもしれない.
そんな交換日記が4ヶ月くらい続いた.小さなA5サイズのノートだったのだけど、
3冊目に入ったところでその役目を終えた.

その病室で母は息を引き取った.了年78歳.
体の弱かった身にしては長生きしたのかもしれない.



・定番の旅行

2000年初期までは妻の両親や姉家族との仲も良く維持できていて、
一緒に近場の旅行に良く行った.

鬼怒川、那須、裏磐梯、伊豆…等々の温泉地が多かった.
今多用している箱根の会社の保養所は未だ稼働してなかった代わりに、
信州白樺湖の保養所が定番の旅行先だった.

大きな山荘風の建物で、全部で8部屋位の規模、家庭的な味の食事とシフォンケーキを
はじめとしたデザートが美味しい保養所だった.我が家はスキーはしないので、
春夏秋の3シーズンは通いまくった.




標高1200mはあったから、当然涼しい…冷房設備は無かったが夏でも快適に過ごせた.
もう今は閉鎖して運用されていないのだけど、当時の管理人さん夫婦と今も懇意にして
もらっている.

このご夫婦、今は八ヶ岳のふもと原村でカフェ・レストランを経営されている.
弊記事に良く出てくる“Green Egg”がそのカフェである.
いつ行っても美味しいケーキ群が食べられる♪.

冬場は店を閉めて、タイやカンボジアへ長期旅行に行かれてしまう.雪に閉ざされるしね.
帰国した後は、タイ風メニュが出てきてまた食事を楽しませてくれる.
今でも、信州に頻繁に出かけていくのはそんな理由….



・大学受験そして娘の一人暮らし

娘の高校生活は面白かったようだった.友人も多く出来たようだし、部活も放送部に入り
そこそこ頑張っていたようだった.副長の世代で考える放送部は、マイク一つの音声による
学内放送なのだけど、この私立の大学付属高校ではなんとTV放送システムだったことに
驚かされた.

学園祭で業務用のTVカメラを操作する娘の姿を見たときは驚くと供に、
時代の差を感じさせられた.

高校2年辺りから進路として美術系を志望するようになり、美術塾へ通いだした.
ガッツリとデッサン力の研修に励んでいたよう.大学受験は神奈川の相模大野だったので、
副長が付き合った.

会社の仕事で良く利用していた町田のビジネスホテルに前泊し、娘を試験場に送り出した後、
新百合丘の映画館で映画を観たのが印象に残っている.作品は邦画で「今会いにいきます」.
竹内結子・中村獅童が出逢った作品、その後本作が縁で二人は結婚して、…離婚した(笑).
山梨北宋市のひまわり畑で撮られた二人の出会いのシーンが頭にこびりついている.

映画はさておき、娘は無事美術大学に合格して大学に通い始めた.
基礎教養の1年は東京高円寺だったので自宅から通っていたが、2年生以降は相模大野である.
学校の女子寮での独り生活が始まった.かなり心配したものだが、なんとかなった…?!

携帯も普及したころだったので、
時折送られてくる自炊料理の写メに驚くと供に成長を喜んだりもした.
結局女子寮で3年間暮らし、その間に新たな友人と人生の伴侶とも知り合ったのだった.



・もう一人の母との別れ

妻の両親とはスープの冷めない距離に住んでいた.距離にしたら30m.1丁目と2丁目の差だ.
妻は次女だったが、近所に両親が住むというのは心の支えになっていたと思う.
特に母親っ子であった妻は、その母と一心同体だったような気がする.

その母が病んだ…心臓の弁膜の大きな手術を受けた.これは成功したが
身体障害者扱いとなった.その身障者手帳を使うと高速代が半額になるので、
術後もバンバン一緒に旅行したりしていた.

が、2005年暮れ辺りから徐々に具合が悪くなり、某医大系の大型病院へ入院した.
妻は毎日、副長も3日おきに見舞いに通った.

この義母はおおきな意味で家族の中心だった.自らの家族だけでなく、艦長家も長女家も、
そして義母の出身の実家…同じ市内の旧街区にある、においても長女だったがゆえ、
弟たちや妹たちの取り仕切りの中心だったような気がする.

表立ってああだこうだ言う人では無かったが、“族”の中心にでんと控える、
そんな立ち位置の人だった.

その“母”が帰らぬ人になってしまったのが翌年2006年の5月.
“族”の中心を失い、“族”はバラバラになってしまった.まずは夫である義父が狂い始めた.
たがが外れたというか糸の切れた凧のように好き放題を始めた.

長女一家や次女一家(艦長家)に過剰なまでの干渉や恫喝まで始まり、その影響を受けて
艦長と副長の関係もぎくしゃくし始めた.

副長が内向的に向かい始め、ブログを本格的に始めたのもこの頃だった.
以降はブログ記事に同期するので、本パートで「昔話し」は終了とする.

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もともとこの昔話しを書き始めたのは、娘に父親の人生の概要を伝えたかったから.
娘は本ブログの読者だし、伝える手段としてブログを選んだ.
ファン扱いしていないので、やむをえず一般公開として皆様にもさらけだしてしまった….

最近のパートでは事実と異なるなどの娘からのクレームも受けている(笑)くらいだから
きちんと読んでくれていると認識している.もう記事だけでなく娘の人生も同期している.
そんな意味からも、この昔話の役目は終えたと実感している.

これからの人生一区切りつけて、またいつか昔話しを書き始めるかもしれない.
孫の為かな?(笑).その時は、また呆れながらお付き合い下さい.

長い間お付き合いいただき感謝に堪えません.
ありがとうございました.






.





2000年代の昔話し(その1)


いよいよ2000年代に突入です.
2005年には本ブログが始まってますから、
そこまでの5年間を書き終えて終わりにします.

副長も40代後半から50代へ突入.
親との別れ.子の旅立ち等を迎えます.

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2000年代の昔話し

・2000年問題

1990年代ももう終わろうかという頃、みな忘れちゃっただろうけど、
2000年問題というのが存在した.

1995年辺りから副長家にもパソコンが進出してきた.当時はまだダイヤルアップ
でモデムを通じてインターネット通信していた時代.副長家はこの時からベーシックな
Macを活用していた.このMacで艦長もキーボード入力の練習をしたんだね.

そんなパソコン社会で2000年という世紀の切り替え時に大きなトラブルが起きるのではないか
というボンヤリした予測から会社ではあたふたと対策?未然防止策を講ずるのに大忙しだった.

そんな会社での問題はさておき、我が家の2000年問題は娘の進学問題、高校受験だった.
今時は小学受験だの、中高一貫教育で中学受験なんてのがざらなのだろうけど、当時はまだ
のんびりの風潮.わが娘も小中学校は地元の公立校へ通っていた.

さて、高校受験.やはりチバラキ地区は東京神奈川に比すると全く不利と言うか、
環境が悪すぎる.選びようが無いのである.やはり少しでも良いレベルの学校に入れて、
良好な環境で青春時代を送ってほしいもの.あれこれ入れそうな学校を探した.

受験勉強なんてものが苦手な娘は上手く推薦入学の道を見つけ、
某私大付属高校へ入ることとなった.ホッと胸をなでおろしたのは副長だけでなく、
艦長も大きな安堵のため息をおろしていた.



・デジタルカメラに転換

副長はカメラ好き.2000年時点では、C社製の一眼レフ2台とレンズ7本、
コンパクトカメラ2台、6×6のレンズシャッター(蛇腹の奴だ)を保有.

当然この時期はみなアナログカメラ.ネガフィルムやポジフィルムにお世話になっていた.
トライXだの、コダクローム64なんてフィルムが冷蔵庫に
うじゃまんと置いて有ったりした時代だ(笑).
学生時代は自分で現像もしていたけれど、やっぱりラボに任せるのが一番だったよね.

その頃勤めていた事業所が拡張されて新しい食堂を作ることとなった.
事業所内3つ目の食堂の名前を社員に募集することとなった.

気軽に応募した副長の作がなんと採用され、副長は社食の名付け親となった.
賞品はなんと、出始めたばかりのデジタル・カメラ.C社製のコンパクト・
デジカメの初号製品だった.当時9万円近くする高級品 ! .



付属のCFカードはなんと32MB…Lモードで撮るとわずか12枚しか撮れなかった.
後から256MBのSDカードを買い足したけど、当時でも5千円はしたなぁ….
今のメモリー事情を考えると、MB当たりの価格は当時の1/1000になってますな.

かくして、副長のデジカメライフはこうして始まった.元来、技術とか新製品には
保守的な副長.こうした“事件”的なきっかけでもないと、ずーっとアナログカメラ
を使い続けただろうなぁ….今から思えば、この“事件”には感謝している.

以降、副長家のデジカメは増え続け、娘と父親で累計11台も…(笑).
極々最近も一眼レフのボディをこっそり購入した副長であります.



・アッシーに専念する

娘はJR駅まではなぜか自転車通学だった.バスもあるのだけど本数とか少ないしね.
JRでは二駅の距離、駅から高校までまたけっこう歩いて通学をしていた.

帰宅頃にはもうクタクタで、夜は良く車で駅まで迎えに行った.自転車と娘を乗っけて
帰宅するのである.その頃の副長の自家用車は初代のFit、後ろに自転車を
乗せるのは簡単だった.

ちなみにその頃の艦長車はCivicの5ドア、1.5LVTECに切り替わっていた.
副長家は基本は2ボックスの車なんだね.4ドアセダンはやはり
生活スタイルに似合わないと判った.

娘は学校の帰りに塾にも通うようになり、
夜のお迎えは日常的になった.塾とは大学受験の為なのだけど、絵画塾だった.
その頃から美術大学志望だったんだね.せっせこ、日々デッサンの練習に励んでいた.

自転車・JR・徒歩と公共機関を使うと1時間以上もかかる通学距離も、車だと
20分強で着いてしまう事に気がつくと…、朝も学校に送る事がしばしば…(笑).

副長が会社行く前に送り届けちゃうのである.その頃は副長も事業所が異動になり、
娘の高校に近かったからね.
そんなこんなで娘の高校の3年間の想い出はアッシーなのだ(笑).


この章終わり.次ぎに続く….











1990年代の昔話し(その11)

1990年代の後半、またも副長は仕事に追われています.
これで1990年代の昔話しは終了します.

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・仕事に燃える(中国編)

そんなこんな事情のなか、また仕事に熱中していた副長.
次は中国上海の西100kmに位置する蘇州地区に工場を建てることとなった.
今度は蘇州で製品立ち上げ応援に従事する.

この時期は中国が“世界の工場”なんてもてはやされた時代.ブームだったよね.
会社内でも中国語教室が催され、副長も参加していた.

相変わらず出来の悪い生徒だったけど、厳しい先生に指導を受けながら、
食事会したり宴会したり楽しい時期だった.

元来副長は耳が悪いのか、聞き取りが上手くなく、その帰結として話すのも下手.
この中国語は全く身に付かなかったなぁ.中国語は耳に綺麗な言葉で、
嫌いではなかったのだけど残念なことに、今でも全く喋れない(泣).

言葉は出来なくても出稼ぎには駆り出され、
何度か蘇州へ出張することとなる.まず驚かされたのは中国社会全体の進化の速度.

特にインフラ面の変化スピードには驚いた.行くたびに道路は新設され、ビルは建ちまくり、
地下鉄が走り始めたりしていた.見た目の風景がどんどん変わっていくのだ.
都市部は特に顕著なのだけど、空港へ向かう車窓から見ていても、地方部でも住宅が
新設されたり、森が切り開かれ環境破壊がどんどん進んで行くのを目のあたりに見せつけられた.

さて、その蘇州での生活状況.定宿にしていたホテルの近所に日本食堂街が存在していたので
食事には全く苦労が無かった.出張当初は物価も安く、75元から100元位(1200円位)で
飲み放題、食べ放題なんて店ばかりだったから、暴飲暴食に歯止めが効かなかった(笑).

当地会社での昼食はなんと5元(70円位)で定食が食べられるという環境.
ただし本物の中華だ(笑).朝はホテルでバイキング朝食、昼は中華定食、
残業して夜遅くに日本食と日本ビールという毎日を繰り返していた.

休みはご多分にもれず蘇州市内を歩き倒した.蘇州には世界遺産が4つもあるそうで、
留園とか獅子林なんていう名庭園めぐりや運河めぐりに興じた.


《蘇州 留園》留園HPから借用


バスは言葉が良く分からないし、タクシーは運転が怖い(笑).
結局かなり距離があっても歩き倒した(笑).
平日は暴飲暴食を繰り返していたから休日でちょうど元を取り返していたのかも.

そんな中国出張に一眼レフは持参せず、AutoBoyと称するC社製のコンパクトカメラ
を片手にとっとこ歩き回ったものである.そんな行先で様々な現地の食堂に入っては、
青島碑酒(チンタオビール)と訳の分らん中華を食べたものだった.

生ものは避けた方が良いとは言われていたものの、刺身類や寿司も良く食べてたなぁ….
でも、現地在邦人でも、E型肝炎なんて珍しい病にかかった人もいたから、
やはり危なかったのかもしれない.これは時の運…と考えていた(笑).

たまの中国人たちとの宴会にも苦労させられた.
“乾杯”(カンペイ)の嵐が襲ってくるのだ.次から次へと客人へ老酎や白酎を次に来るのだ.
乾杯(カンペイ)…杯を干すまでは許してくれない.これでつぶされてしまうのだ.

白酎(バイチュウ)なんてアルコール度40から50くらいで強烈な酒.たまったもんじゃない.
そうして客人を酔いつぶすことがおもてなしとする風潮だから始末が悪い.
出来るだけ、ビールとかワインといったアルコール度の低い酒で向かいうつのを常としていた.

逆にこの蘇州の工場から研修と称して日本でこの中国人たちを向かいいれたことも数回あった.
富士山を見に行ったり、日光へ行ったり、至れり尽くせりの扱いだったなぁ….

今や、その人たちが中核となって働いてくれているのは感謝に堪えない.
中国人といってもやはり色々いるもので、恩とか忠義心に厚い人もまれにはいるんだね.
身勝手な人ばかりではない.

今や経済大国となった中国、貧富の差が大きいとか、中央と地方の格差が大きいとか課題は
満載なのだけど、その革新のスピードと国民の貪欲さにはただただ感心するばかりだし、
15億ともいわれるその国民の市場としての魅力は、経済面では侮れないものがあると思う.



《自宅の“野バラ”の前で》1996年6月

・萩原くん

90年代後半ともなると、娘は小学校を無事卒業し地元の中学校へ入学した.
これまた徒歩で7~8分の近さ.

東京へ通勤する親が住むニュータウンだったので、地元の市内ではかなりハイレベルの
子供たちが集まるらしく、とてもレベルの高い上品な公立中学だった.
副長が通ったやさぐれの中学校とはえらい違いに驚いた.

ご多分にもれず小学も中学も学園祭や運動会ともなると、カメラを担いで
馳せ参じるわけなのだけど、ある年の中学の運動会で、とびきり体の大きい
動きの良い中学生を見かけた.

娘に聞けば同窓生の萩原君だという.この時は野球部に所属していてなんとピッチャーだという.体は大きいのに足が速かったのを覚えている.

この萩原くん、卒業しても高校へは行かなかった.相撲部屋;鳴門部屋に入ったのである.
のちに出世して名を稀勢の里という力士になった.
そう、先シーズン三横綱を破ったあの大関;稀勢の里なのである.

娘の同窓では一番の有名人(笑).副長が良く通っている
焼き鳥屋にもよく顔出しするそうで、手形や写真やらが飾ってある.
その焼き鳥屋の近所に彼の出身小学校が在り、そこにはいつも「稀勢の里関、頑張れっ!」
の横断幕が掛っている.

大関なのに未だ優勝経験がない稀有な履歴の相撲取り、
久々の日本人の横綱になって欲しいもの.
毎場所、こっそり応援しているのだ.



《茂木リンク ヒストリーカーミュージアムにて》1998年3月


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これで1990年代の昔し話の章を終えます.
後は2000年代前半の章だけでこの「昔し話」は終了です.
あともう少しお付き合いください.









1990年代の昔話し(その10)

1990年代、フランスから帰ってからの副長の昔話しです.

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・マニュアルからの脱出

日本に帰える前から自動車は発注していた.艦長(元妻)が先に戻っていたからね.
車が無いと不便な地域なんですな、チバラキというのは.

艦長が日本に帰国する3月までに納車できるよう、馴染みのディーラー
(もう35年の付き合いだ)にFAXで仕様や支払条件を連絡しておいた.

今度はおとなしくHONDAシビックの4ドアセダン.
可変バルブ仕様のVTEC、1.5Lの4気筒.なんと副長家初のオートマチック車!

艦長もマニュアルしか乗ってこなかったから、かえってビビっていたのだけど、
もうそういう時代じゃないと副長判断でマニュアルから脱出したのだ.
フランスから電話で聞くと、至って快適っ!と艦長御満足の様子….

ガンメタ色の4ドアセダンだものねぇ…艦長好み(苦笑).
エアコンはオートだし、ウィンドウも電動なのには感動したなぁ.なにせ、フランスでは
何もかもマニュアルのゴルフに乗っていたからねぇ、えらい進化だった.



《HONDA Today》1996年

さて、自分の乗る車は帰国してから自ら探した.日本では副長家は2台体制なのだ.
駐車スペースと経費上の問題から、2台目(副長車)は軽自動車と決めていた.

幸い出物の新古車のTodayが見つかった.濃紺の3ドア、これもオートマだった.
軽快な出足の良い車だったなぁ.

でも、当時の軽だから3速オートマチック、ギアの配分がロー気味で、
とにかくキビキビ走るにはぶん回さなきゃいけない.ブンブン、びゅんびゅん
とチバラキを縦横無尽に良く走ったもの.



・仕事に燃える(イタリア編)

その後仕事の方では、なんとイタリアの某関係会社で設計する製品のチーフを任され、
イタリアに出張すること計4回.イタリアといっても北部地方で
ミラノに近いイブレアという小さな街.

イブレアには事務機のオリベッティの本社が存在する.
その会社はオリベッティと弊社の合弁会社で、
昼間っから食堂でワインが有る会社だった.

お昼にワイン飲むから午後は赤い顔して仕事するんだよね(笑).
怪しげな副長の英語オペレーションでなんとか仕事は進んだけど、
休みにはミラノやベネツィア、北アルプスのモンテローザへ登ったりして楽しんだ.


《モンテローザ標高3500mにて》1996年


イタリア人といっても北と南では全く人種も気質も違うことをここで学んだ.
一般的なお気楽な人生を楽しむイタリア人のイメージは南のもの.

北のイタリア人たちは勤勉で生真面目な人が多かった.
仕事相手としては申し分なし…だった.

南と言うと…ナポリやソレント地方で、ワインも豊富だが、産業的には農業が主.
工業的なものは全て北イタリアに集中する.

大体、車産業…FIATやフェラーリなんてのは全て北イタリア、ミラノやトリノに位置する.
かといって北イタリアは農業も無いわけではなく、小麦やブドウの産地で、
極めて真面目な濃厚なワインが有ったりする.
ピエモンテ州のワイン;バローロの美味しさを覚えたのもこの地にたびたび出張していたから.

ピッツアは南の方が美味しい気がするが、パスタやリゾットが美味いのは、
この地で作られる小麦や乳製品のチーズが美味しいからかも.

フランスとは大違いで、簡単なパスタやピッツァ、リゾットが食べられるレストランが多くて、
北イタリアでは本当に食事に困らなかった.ただ、困ったのは正式なイタリア料理.

ちゃんとしたレストランで、食べるととにかく量が多い.前菜に土地の野菜や加工肉が出ると、
一の皿でガッツリのパスタが出てくる.二の皿は、又も違う味付けのパスタだったりする.
ペンネやタリトゥアーリだったりもするんだけどね、パスタには変わりない.

そうしてやっとメインの…魚が出てくる.どっしりとした鱒のグリルだったりして.
なんとその後に、メインの肉が出てくる…なんて具合でいくら大食間の副長でも、
勘弁してほしいボリューム.公式な席が辛かったなぁ.

もう一つの想い出は、その会社在勤の日本人スタッフへの土産.やはり日本食材の入手に
困っていて、イブレアの住宅の裏庭でゴボウを作ったりまでしていた.

このスタッフの土産の注文が、さんま(笑).イタリアでは入手できないものねぇ.
出張に行くたびにデパートや成田空港でさんまの冷凍パック品やレトルトパックを購入しては、
保冷剤と供に持参した.さすがに生のサンマは検疫上持ち込めなかった(笑).

タイや中国では日本食料理店も豊富だが、イブレアには日本食の欠片もなかったからね.
欧州の片田舎ならではの食糧事情の一端.


《ミラノにて》1997年



・いじめ問題に遭う

娘は自宅近く、その距離50mの小学校に通い始めた.通学状況としては最適の環境(笑).
帰国子女という事もあえて公表することも無く順調に学校生活に馴染んでいった.
子供は適応能力高いからね.

ところが2年生の半ば位から特定の子からいじめを受け始めた.
いつの時代もいじめは存在するもの.
副長自身もかつて悩んだ時期もあった(1960年代編参照).

とかくいじめは、いじめられる被害者側がクローズアップされ、問題視されるのだけど、
本質はいじめ側にあると思う.他人の痛みや苦しみを理解できない頭脳構造、幼児的な残虐性、
家庭環境や育ってきた環境による差別感の存在…とにかくいじめ側に根本的問題が存在すると
思っている.

まずは夫婦で相談して学校に働きかけた.が、御多分にもれずことなかれ主義の先生と
学校陣はなにも手を打とうとはしてくれなかった.やはりいじめ側の子供の親に働きかけ
ようと艦長;元妻が提案した.

さて、どうしたものか逆に弊害は無かろうかとぐずつく副長を尻目に、
艦長がその糞ガキの家に乗りこんで行ってしまった.これが“艦長”と呼ばれる由縁だね(笑).

これが功をそうしたのか、時間が解決したのか、ゆっくりとそのいじめは消滅していった.
早期発見、早期治療が良かったのかもしれない.あるいは娘に耐性が出来て、いじめ
を無視出来るようになったのかもしれない.

その判断力や行動力、なによりも自らお腹を痛めたわが娘を守るという強い気持ちは
艦長と呼ばれるにふさわしい振る舞いだった.

仕事の忙しさにかまけて娘の教育を艦長;元妻に押しつけていたのも事実.
大きな事故は起きなかったものの、今から振り返ると反省する点は多いと感じている.


この章終わり.